大学図書館の思い出:思想のドラマトゥルギー

  • 2019.08.05 Monday
  • 13:27

 8月2日の北海道新聞朝刊に、哲学者・久野収没後20年という題の記事が掲載されていた。久野収の本はほとんど読んだことがないが、60年代から70年代初頭、雑誌の対談やインタビューなどに結構出ていた知識人の一人だ。

 第二次大戦・日中戦争と日本が前のめりで戦争に向かっていたころの文学者や、学者たちの生き方が気になって、その種の本をよく読んだ時期がある。彼らが戦前・戦中を潜り抜けて、戦後民主主義と言われる戦後をどのように生きたのか。他人事のように思えなかったのだ。高村光太郎・三好達治をはじめとする詩人たち、京都学派の哲学者谷川徹や田辺元、わたしの好きだった独立の哲学者・三木清。物理学者の湯川秀樹や坂田昌一・武谷三男・朝永振一郎らの素粒子論グループの軌跡が書かれた本を読んだ。

 

 わたしがそれら知識人に、ただ憧れたからではなく、戦争に反対したり・諸手を挙げて翼賛する、または戦争を他人事のように見る普通の市井の人々が、表面的には何ごともないように、あるいはこっそりとこころの中を押し隠して・戦中戦後をくぐり抜けてきた問題が、彼らの書物を通じて、隠しようもなく、より鮮明に・露に・されてくるからだ。

 

 大学の同級生や先輩たちは、恐ろしい読書家ばかりだった(ばかりに思えた)。北杜夫や石坂洋次郎の青春小説しか読まない阿保バカ大学生(←わたしのことだが)が必死になって、フォイエルバッハだの、デカルト・サルトルだの、わかりもしない難しい本を読み始めた。大学の湿った薄暗い図書館に通い、読み始めた本の中に、林達夫と久野収の対談、『思想のドラマトゥルギー』があった。彼らの語ることが正しいというより、どれほど多くの本を読めばこういう厚みのあるバックグラウンドができるのだろうという思いに駆られた記憶がよみがえる。林の親しい友人であり・獄中で亡くなった哲学者・三木清への哀惜を込めた発言や、特攻隊の遺書にも引用された『ミケルアンジェロ』を書いた歴史家・羽仁五郎への評価、『雀百まで踊り忘れず』・『馬鹿の一つ覚え』は今も忘れることなく心に残っている。

 

 今、わたしはどう生きようとしているのだろう。二度の戦争に翻弄され、亡くなる直前まで、私達子供にも心を明かせなかったアボジとオモニを持つ在日朝鮮人二世として、これだけは守りたい。どんなに憎みあおうと国と国の位置は動かすことはできない。とするなら戦争を回避する道を選ぶほかはないのだ。少なくとも、自分の自堕落な生き方を肝に銘じて、国家を背負い、国家の威を借りる・危険な火遊び発言だけはすまい。同じアジアで、日々生き・悩み、笑う人と人とが、パイザとなって結びつくあり方を、自分たちの・何十年か考え続けてたどり着いたささやかな料理や、このブログを通じて、模索したいと願っている。

 

 東北アジアできな臭い戦争の風が吹いている気がして落ち着かない。しかし、なお、尊敬する・日本の知られざる臨床心理学者や、ならず者の時代を生き抜いたアメリカの女性劇作家や歴史学者のように、何があろうと、ひとの精神とこころは、自由快活に生きてゆけることを、自分のこころのありようを通して実証したい。

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