<のに>をかかえて:海街diaryシ伽帖ゝ氾捗生(よしだあきみ)

  • 2013.06.04 Tuesday
  • 01:09
 学生時代、わたしの同期で、3歳ぐらい年上の・講義にもあまり顔を出さない男がいた。社会人の彼女と同棲していた。おだやかな男だった。大学生になったものの、ただのマヌケな高校生と変わらない十代のわたしは、かれがすごく大人にみえて、彼のアパートへ遊びに行くのが好きだったのだ。政治的な話を一切しない・話は聞くが、意見をほとんど言わない男だった。ところがあるとき彼が学生運動の戦闘的な元リーダーで、運動から足を洗っていたことを知った。彼に誘われて学生運動に走った後輩の学生から軽蔑と怒りの目を向けられていることを、偶然のきっかけで知ったのだった。

 信念とか信仰とか、信じるということは一体どういうことなのか? ひとは何かを信じることなしに生きてゆくことはできない。何も信じないという人は何も信じないことを信じているのだ。自分はそういう確固としたものがないという人はたいてい、わたしのようにその場その場の社会の流通観念を信じていることが多いだけなのだろうか。

 ある思想や宗教を信じて、人を殺したり戦争を起こすまでになる、<信ずる>という行為は、あるいは信ずるものを捨て去るという行為は、ひとにとって何なのかわかりたくて、学生の頃、転向文学と言われる一群の小説を読んだことがある。 

 太平洋戦争下の政治弾圧がひどい時代に、共産主義に入れ込み、治安維持法で逮捕され、信じた思想を捨てて転向した男の小説だった。その中でよく出てきた言葉にひっかかって以後、その言葉を聞くと心がざわつくのだった。

 吉田秋生の海街diaryの最新刊・群青は、とりわけ文字が多くなっている気がする。あい変らずうまい絵と巧みな文字使いだ。

 最終話以外の三話で、それぞれの登場人物たちの<のに>があらわれる。

 第一話『彼岸会(ひがんえ)の客』では、主人公・すずの、亡くなった母の妹が突然連絡をつけてくる。すずの母の実家は、母が亡くなった時すら、連絡しても誰ひとり葬儀にあらわれなかったのだ。
 なんで、とすずは思う。今さら会いたくもない。
 『これ以上会ってもいない人たちを嫌いになりたくないのに』と。

 二話『秘密』では、緩和ケア病棟に配属された長女の幸が患者のウエイティング・リストを読み上げていくうち、そこに親しい人の名を見つけて驚く。桜の見える廊下で、婦長に、身近な人が患者になった時の注意を受けながら幸は思うのだった。
 「こんなことってあるんだ/せっかく桜も咲いたのに」

 すずは親しい人の飲んでいる薬が、がんで亡くなった父と同じものであることを知る。けれど幸からそのことをだれにも言ってはいけないことだと諭される。風太も、すずとのデートの前に、足を切断後、リハビリがうまくいかない元キャプテンの裕也から、サッカーのクラブをやめる話を切り出される。
 すずと風太は、お互いに誰にも言うことができない秘密を抱えたままデートをするのだった。次のページは裕也から辞める話を告げられた後の場面だ。
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 自分の在り様と世界の在り方に深い違和があり、違和を違和としてそのまま受け入れることも、切り離すこともできない。ただ異物として身体内部に呑み込んでいるのだ。風太は、そのまますずとの待ち合わせ場所・豪福寺へ向かった。

 すずは山門の階段で待っていた。


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 「わりぃ! 待ったか?」と言う風太のすこし恥らった顔は、すずの待っている姿が、風太にとって特別のものとなったことを意味している。ひとがある人を、自分のもっていた理想像とは別に好きになってゆく過程で、(たぶん客観的な評価とは無関係に、)想うひとの佇まいに、どうしようもなく、(この世界でただひとりの絶対的評価から、)あぁ、自分は魅かれてゆくんだと思える一瞬が必ずある、気がする。好きだという気持ちが後戻りできなくなる瞬間が。
 
 三話『群青』では海猫亭の老マスター・福田が、若いころヒマラヤのふもとで生活していたことが明かにされる。晴れた日にエベレストが見える真っ青に澄み切った空を、ショウモナイことで迷っていた若い日々に、ただただサイアクの気持ちで見ていたことを風太に話すのだった。そしていま云うのだ。
「あんなありがたいことはなかったちゅうのに……」と

  主人公たちがよく利用する海猫食堂のおばちゃんは、家庭内暴力をふるい続けて、亡くなった母を苦しめた・10年以上音信不通と思っていた弟に、母が金を渡していたことを、母をひとり看取った後に知る。
 「あんなにひどい暴力を振るわれて/……おたがい死ぬ思いをしたのに/……あたしには文句と愚痴しか言わなかったのに」
 それぞれの<のに>のあとに、『群青』後半部から最終話『好きだから』へ、<から>という思いが現れる。

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 還暦を超えたわたしは、いまでこそ、箸が転んだくらいで涙がこぼれるようなしまりのないジジイになっているが、若い頃はおちゃらけて生きてきたから、生れて以来泣いた記憶は2回しかない男だった。マサの気持ちがすこしはわかるのである。

 最終話『好きだから』で、がんの検査を受けた幸が、ひとを看取ることに迷って海猫亭の変人おやじ・福田に語る場面。blue.jpg

 帰りがけ、満開の桜の前で微笑んでいる・亡くなった患者の写真を、見つける。

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 ひとりひとりの<のに>とは一体何か? ネガティブで、無駄な・不必要なものなのか? そうではあるまい。
<のに>の悲しみや苦しみがなければその先の希望や理想も身の内にする(信じる)ことはできないのだ。
 去年亡くなったポーランドのノーベル賞詩人・シンボルスカの詩集『終わりと始まり』の中の「眺めとの別れ」に、
<のに>は出てこない。けれどわたしにはながいながい<のに>の果て(終わり)にたどり着いた、始まりの詩のように思える。
 
またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
草の茎が揺れるとしても
それは風に吹かれてのこと
水辺のハンノキの木立に
ざわめくものが戻ってきたからといって
わたしは痛みを覚えたりはしない
とある湖の岸辺が
以前と変わらず──あなたがまだ
生きているかのように──美しいと
わたしは気づく
……

(『眺めとの別れ』より一部抜粋)


補追:最終話『好きだから』の最後のセリフ。
   
                       『じゃ焼肉!

  えっと、皆様のお越しをお待ちしております。
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